「そのまま」読む話。
「そのまま」見たいと思う。「そのまま」感じたいと思う。
人や物、事態というものは、おそらく非常に複雑・多様なものであるけれども、
私(たち?)はその複雑・多様であるが故に「めんどくさい」総体を、
すぐに良いとか悪いとか、優れているとか劣っているとか、善悪で判断しがちなのだと思う。
良いとか悪いとか判断されるものの多くは、ただそれを見た人の好みの問題であることの方が多いと私は思う。好き嫌いの問題が、良い悪いという問題にすり変わっていることは、割と見かける。
二項対立的な思考はいけない!
なんてことを言いたいのではない。
というかソレ、矛盾しているし。
そうではなくて、複雑・多様なものを複雑・多様のまま感受することができれば、どれだけ豊かなのだろうと思う。
強制ではなく、これは意思の問題。
とはいえ、価値の相対化の訓練はたいそうなことだが、
いざ判断が必要なときに、困る。
なにが正しい判断かわからないからである。
好きか嫌いかで全員が納得できればそんなに楽はことはない。
が、そんなことは起こらん。
一つの主張を通すというのは、難しい。
世の中様々意見が溢れる。会話の中にもいろんな意見が、立場が、断定がある。
よく言い切れるなと思う。
そいつがそのことについてよく知っているのか、思いつきで言っているのかもわからん。大体のことは、専門家だろうが素人だろうが、いってることはデタラメ。
因果関係なんて、案外ちょろい。
デタラメなことをもっともらしく語るのがうまい人もいるし、
誠実さを言葉にノせられない人もいる。
言葉は言葉でしかないが言葉しかない。
不可能で不可避である。
言葉は世界を分節することだという。
ならば、先ほど複雑・多様なものをそのまま感じたいと言ったが、
感じたことを言葉にしようとしたら、それはそれは、気の遠くなることになんだろうね。
複雑・多様なものというのは、判断するにも、言葉にするにもめんどくさいものでしかないけど、それでもその豊かさに接近してみたいと思う。
いや、考えてみれば、本来複雑・多様なものを「そのまま」みたいといったが、
「そのまま」みるから複雑・多様で、それに憧れているという話ではなかったか。
はー、言葉は慎重にね。
こうの史代『平凡倶楽部』、石牟礼道子『椿の海の記』、岸政彦『断片的なものの社会学』、あと、ときどき思っていること。
これら経験が今回のようなとりとめもない言葉の発露につながっているんだけど、
なんだこれ。まあいいや。
今、『断片的な〜』と同時に買った國分巧一郎の『中動態の世界』が読みたくて仕方ない。
あと最近、別府ブルーバード劇場というところでバイトを始めたんだけど、
書きたいこと溜まったら次それ書くかなー。
お粗末様でした。