ヨウナモノノ

ブチ切れ毎秒

随筆のようなもの。

朝から志望している企業の最終面接に臨んだ。

 

海外に工場をいくつか構える部品メーカーであることや、留学生が学生の半分をしめ、英語教育に力を入れている大学に通っていることを考えると、当たり前のことなのかもしれないが、それにしても、面接の質問内容は、ほとんど英語に関することだった。

 

企業が知りたかったのは、私が、英語がどれくらいできるのか、外国人とどれだけ仲良くできるのか、英語を身につけるための努力をどのようにしてきたのか、そういうことだったのだと思う。同時に、それしかないのかと愕然とする。

 

なるほど、これが企業ってヤツかと。使えるか、使えないか、それが尺度なんだと思い知らされる。私は大学で結構勉強しているつもりだけど、そんなもの、関係ないんだな。素直で、明るく、お勉強ができる、「有能」な人が欲しいんだな。「主体的に考える人材が〜」と言う割に、研究の中でどうにかこうにか主体性を身につけようとしているそのことはまったく聞かないんだな。英語をしゃべれるかなんだな。

 

落胆もした。しかし、それ以上に、社会はそうなのかと、

妙に、ストンとズシンと、納得した。

 

勉強しているから大丈夫だろう。勉強していることを免罪符のように、いつしか感じていたけど、勉強してるうちは、甘いんだな。緊張感がない。「で、お前は何ができるの?」という、実力を示さないと見向きもしてくれない。そりゃそうだろうな、いつまでも勉強してたら、邪魔だな。

 

小林秀雄の論考によると、中江藤樹の直弟子熊沢蕃山は、藤樹が「天下の大不幸」と呼ぶ戦乱の世において、「天地の間に、己れ一人生きて有ると思ふべし」という言葉を残したという。

 

「己れ一人生きて有る」。そりゃそうだよなあ。「斬り捨て御免」の世の中で、「努力してるんですぅ〜」ってそれがどれだけ無意味か。相手より強いか、死ぬか。その中で生きてたら、言い訳もクソもないよな。死人に言い訳ができますか。努力を言い訳にしてても、企業からしてみれば「切り捨て御免」なわけだ。

 

 

歴史上の偉人じゃなくても「己れ一人生きて有る」覚悟をいう。ラッパーの方がよっぽど肝が座っている。MC漢は「世の中人のせいなんてもんはねえ」と喝破する。

で、「無理ならば人里離れて暮らせ」だって。

フフフ、なるほどー。

 

もしかして企業の幹部の目が鋭いのはそういう緊張感の中で勝ち上がってきたからじゃないか?とちょっと思う。昔から大人のそういう目は冷たい感じがして嫌いだけども、もしそういう覚悟の中で生きてきて身につけた鋭さであるならば、今までとは違う印象を受ける。

 

というわけで、いきなり覚悟なんぞ身につかないかもしれないけど、

言い訳するのは、自分の牙を抜くことになるのだと、つくづく思いましたとさ。

 

 

で、ここからはまったく独り言。自分の研究に引きつけて今日のことを考えると、

教育社会学者の本田由紀があれだけしつこく「教育の職業的意義」を言っていたのは、教育「サービス」の中で牙を抜かれた学生がいきなり厳しい競争原理の中に放り出され、なおかつ、以前よりも牙を研ぐ期間がない状況で折れていく姿をみて、なんとか学生に自分の武器をもって欲しいという願いからきているのではないかと改めて思う。古典論をやりたい、古典を読むことは重要だと主張したいけども、やっぱり「手に職」「実力」がものをいう世界が大多数の学生が迎える世界であるならば、大学に職業訓練的な性格は必要だろう。しかし、それと同時に、厳しい時代を生き抜いてきた偉人と対話し、その生き様を学ぶ機会として「古典」を読むというのも、やはり意義があるなと思う。再び小林秀雄を引用すれば、中世において「読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった」。 

 

さて、どうなっていくか。