魅了と触発、苦海浄土。

 

昨年の12月はじめに壊したパソコンの画面の修理を、昨日ようやく依頼することができた。便利にモノを使っているとき、我々はなんらその便利さを自覚していない。壊れたとき、失ったときにその便利さが現前するとはまさにそうで、早く手元に戻ってきて欲しいなと思うのみである。

 

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さてさて、このところ忙しい日々が続いた。期末試験、冬セッション(長期休暇中の補講のようなもの。5日間で単位が取れるので結構履修する人は多いらしい)、ゼミ合宿。期末のレポートや試験は最小限の努力で倒せたが、セッションやゼミ合宿はそうはいかない。しかしながら、非常に内容が濃く、魅了触発されたのであった。

 

セッションについては、上野俊哉さんの講義を受講した。上野さんは日本にカルチュラル・スタディーズを持ち込んだ第一人者ともいうべき人物である。ここで、講義の評価を下そうという意図は全くない。しかしながら、講義内容や彼の講義形式や、ちょっとした話の諸々が刺激的だったことだけは、どうしても言いたい。仏の〈思想の不良〉フェリックス・ガタリの難解な思想を紐解き、我々の身近な諸問題へと思考を「今・ここ」に飛躍させる手腕は、氏が大学教授としての職業の傍ら、アングラシーンでDJをしていることにも由来するのだろうか。巧みであった。

 

何より刺激的だったのは思考を飛ばされる体験である。講義ではカルチュラル・スタディーズを語る上では外せない人や重要な考え方など、最小限のことは覚えろと言われたが、他は教え込まれていない。そうであるのに(or そうであるから)グツグツと煮えたぎるように、あれやこれや、考えることを誘発されたのである。映画や音楽やアニメ(攻殻!)など身近なところと合わせて話がされるからなのか(それにしてもそのあたりのカルチャーの知識が、とんでもなくオタク)、社会問題やアカデミズムに関する豊富な知識がそうさせるのか...どっちもだろう。

 

私は大学教育をテーマに研究をしているが、能動/受動の二項対立的な状況を超えるにはこうした彼の魅了/触発する教育(pedagogy)の姿が一つの考え方のヒントになるだろうなと感じた。

 

また、彼の講義の中で価値の宇宙(重層性)、という言葉があった。これがすごく腑に落ちた。というのも、人文のセンスはこの宇宙を見抜くことだという風にピンと来たからである。現実は善悪や加害者被害者などでは割り切れない問題に満ち満ちている(わかったような口を叩くな、と自分自身に言いたいが)。それを見抜き、拾い上げる。たとえば、遠藤周作が『沈黙』において棄教の善悪を解体したように。紋切りの、二項対立的な理解では見過ごされがちな重大な価値に気づくこと。それこそが豊穣な世界を見せてくれること、そうしたことを理解できた。改めて、履修してよかったと思う。

 

続いて、ゼミ合宿。今回のゼミ合宿のレジュメを書き上げたとき、とてつもなく死ぬのが怖かった。「こんなに発表を聞いて欲しいのに、死んだら発表できない!」、この恐怖である。それくらい、のめり込んで書けた。連日明け方まで勉強した甲斐があった。

 

それにも関わらず、発表はうまくいかず非常に悔しかった。しかし、他の人の発表・発言が面白くて、そんな自分の悔しさはどうでもよくなった。先輩から「今日、すごく元気だね」と言われたことがそれを物語っているように思う。先輩の研究の盤石さも頼もしいし、同級生の研究もいい刺激になるし、後輩の発表も面白いし。思考を飛ばされる。触発される。色々思うこともあったりするが、やっぱり、いいゼミだなと思う。

 

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上野さんの講義でも触れられた石牟礼道子『苦海浄土』を今読んでいる。高校のときから気になってはいたが、これを機にようやく読んでいる。しかしまあ、ほんとに...こんなことが60年前にあったのかと、苦しくなる。闊達な漁師が、息子が、娘が、言葉を失っていき、手足が機能しなくなり、激しい痙攣に襲われ、その上同じ「被害者」である住人から差別される。一方、国はそれを数年黙殺。「加害者」であるはずのチッソの社員は自分たちの生活が住民によって脅かされる。

 

なにが善くて、なにが悪いか。

だれが加害者で、だれが被害者か。

そんな二分法がそもそも誤りか。

一元的な価値で物事をみていないか。

紋切りな理解をしていないか。

 

こういった問い直しをする上で、『苦海浄土』も重要な触発のテキストである。

 

社会に出たら、こんな問い直しもなく忙殺されるのかなーとか。いやそもそも社会人になれんのかーとか。でもちゃんと考えられる、魅了/触発できる大人になりたいなーとか。だからもっと勉強しなきゃなーとか。そんなことを思う。云々。