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ヨウナモノノ

ブチ切れ毎秒

『この世界の片隅に』を見た。

前回の記事に、『この世界の片隅に』が気になりすぎて〜というのを書きましたが、今月のはじめに満を時して観にいきました(観てから時間が経ってしまった。。。)

 

ほんとにこう...みんな言っているんですが、なんと言葉にすれば良いか困る。しかし語りたいし、語るためには言葉にせざるをえない。ここまで心を揺さぶられる/えぐりだされる映画はなかなかない気がします。

 

さて、以下はネタバレしかないので、ネタバレが気になる人はまた今度。ネタバレせずに語るなんて器用なことはできません。では下へ。

 

 

 

 

 

 

 

張り切った考察はしません(というか、そうやって中身を抽象するのはこの映画で伝えたいことと反する気がする)。あくまでも感じたことをつらつらと書きます。

 

コメントせずにはいられないもろもろ

●オープニング

オープリングで、コトリンゴさんの「悲しくてやりきれない」が流れるじゃないですか。まずあれで泣きました。一緒に劇場にいた人たちの中で最速だったと自負しています。

 

声と曲が、あの絵柄に「これしかない」というくらい合致していて感動したのと、事前にツイッターなどで、「コトリンゴさんの曲がいい」という評判を見ていたので、「これがあの曲か」という感慨の後押しもあって、すぐに涙腺がやられました。

 

「悲しくてやりきれない」は、もともとザ・フォーク・クルセダーズという人たちの曲らしいですね。

www.youtube.com

 

●波のうさぎ

すずさんが水原さんの代わりに絵を描いたあれです。漫画でも好きなシーンだったんですが、映画ではまたかわいらしく、うつくしく、とても綺麗でした。

 

「出来てしもうたら帰らにゃいけんじゃろうが。こんな絵じゃ海を嫌いになれんじゃろうが」

 

ほんと水原さんは泣かせにきますね。

 

●初夜

(…上気した頰のすずさん…いいぞ……)

 

 

●徑子さん

すごくイメージ通りの徑子さんの声でした。彼女、ほんとに辛い状況が続きます。息子と会えなくなり、夫にも先立たれ、家も、娘も、、、フルボッコです。しかし、同情を誘わないその強さ。最初は姑らしくすずさんに当たっていましたが、後半二人が打ち解けうところはこちらも嬉しかった。

 

●墨

徑子さんの嫌味を込めた「あんた広島へ帰ったら?」を「帰省ですか」と解釈する、ハイパーおっとりをかまして実家へ帰ったすず。妹のすみに、「ハゲ海軍の機密」を知らされる。

 

呉へもどったあとの、ハゲ(おい)を気にしているすずさんの仕草がかわいらしかったですね。周作さんにばれていることがわかったときの、「あちゃー」だか「たはー」だか言ってそうなあの顔、たまらんですね。

 

延々と「すずりかしてぇ」と徑子さんに駄々をこねていた晴美さん。その理由が「すずさんの頭に墨ぬってあげるん」。無邪気すぎるぜ晴美さん。。。

映画が始まって最初に劇場内で「クスッ」がシンクロしたシーンです。あとどうでもいいですがコレを思い出しました。書き込め。

 

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●砂糖を水瓶に落とすシーン

漫画では結構あっさり描かれているんですが、映画ではかなり気合をいれて描かれていましたねえ。ここでも劇場のクスッが一致。

 

●リンさん

いやーーー、映画ではリンさんとの関係が極薄になっていました。残念。エンドロールに追加されていましたが。

 

ユリイカという雑誌の11月号は原作者であるこうの史代さんの特集だったわけですが、そのなかで本作の監督である片淵監督がその理由について語ってくれていました。これによると、映像に音楽を合わせる過程で、自身の予想以上に空襲のシーンが恐ろしかったらしく(戦争なんて二度と描きたくないと思った、ということも書かれてありました。ほんとにブラックラグーンの監督の言葉か...?)、戦争でもすずさんは傷ついているのに、日常生活においてでも夫が遊郭に行っていた事実に傷つけられたらこの世界のすずさんはもう立ちあがれなくなってしまうのではないかと、そう思ったらしいです。しかし、やはりリンさんとの絡みが抜けることに反対する声もあったらしく、そこで急遽エンドロールに追加したということだそう。

 

●水原さんの宿泊

すずさんと同郷の水原さんが入湯上陸ということで、北条家に宿泊します。

...すずさんの声はのんさんで良かったとおもうんですが、水原さんの声がやっぱりどうしても小野Dで、めちゃくちゃいいセリフ言ってるのにもう小野Dでしかなかった。あと気になるのが、映画では結構あっさり描かれていたので、水原さんがただの色男として解釈されていないかと。幼少期の2人の会話が映画では多少省かれていたので...。

 

まあそれは良いとして。

水原さんがすずさんを普通だといって笑います。どういうことか。水原さんは軍人としての「当たり前」に疑問をもっています。「わしはどこで人間の当たり前から外されたんじゃろ それとも周りが外れとんのか ずっと考えよった」。このような時代であっても、昔と同じように笑って、怒って、暮らしているすずさんをみて「安心した」という。

 

自分の考えている普通に、戦争のイデオロギーの中で、自信をもてなくなったんでしょうか。けれども、すずの生活を見る限り、やはり間違いはなかったと。人間としての、当たり前は、鮮烈なイデオロギーの支配下におけるものではないと。

 

「すずがここで家を守るんもわしが青葉で国を守るんも同じだけ当たり前の営みじゃ そう思うてずっとこの世界で普通で…まともで居ってくれ」

「わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ 笑うてわしを思い出してくれ」

「それが出来んようなら忘れてくれ」

 

本当に当時、このように考える軍人もいたかもしれません。そう思うと、胸の奥がしめつけられます。

 

この作品一位二位を争う、名台詞だと思います。

 

●空襲シーン

もう、めちゃくちゃ、怖かった。映像をみて、ましてやアニメ映画であんなに恐怖を感じたのははじめてでした。私は戦争映画がすきで、いくつか見てきたんですが、そのどれよりも圧倒的に怖かった。なんなら怖すぎて泣きそうだった。

 

金属片が、あんなに高速で飛び散るんですよ。あんな物量で、落ちてきて、家も人も燃えて、爆音で、怖い。しかも、この映画が「戦争モノ」ではないからこそ、日常に唐突として侵入してくる戦争に恐怖した。

 

で、あの空襲が、いったい何度起こっているのか。。。途方にくれるしかなかった。

 

惨劇を惨劇としていやに強調せず、この映画のように淡々と描いたほうが、むしろ戦争の「本質」というものが見えるのではないかと感じた瞬間でもあります。

 

●時限爆弾

原作では土に刺さっているんですが、映画では地中に潜るタイプに修正されています。

片淵監督がそういうものに詳しいのもあるんでしょうが、漫画の最後に「間違っていたら教えてください 今のうちに」と書かれています。先に挙げたユリイカでも漫画家の西島大介さん(これまた私の好きな漫画、「ディエンビエンフー」の作者。こちらはベトナム戦争をテーマにしているようで、ベトナム戦争とはいっさい関係ないブッ飛んだストーリーを展開している漫画です。「未完」のまま終わっていましたが、どうやら来年度からまた連載されるらしいです)が言及していましたが、これが実践されているところに、この作品に関わる人たちの誠実さが表れているようで、敬意を感じずにはいられません。

 

●晴美さんの死

人が死ぬ、ということを舐めていました。

 

画面が暗転して、白く涙がはねるシーンは嗚咽しました。映画でもっともえぐりとられたシーンでした。。。

 

●右手

この作品の右手の役割をうまく書くのは難しいんですが、人が「生きててよかったね」といっても、すずさんにとってはやっぱり大切な右手で。そうしたことを離れて、生か死かで語られる戦争への反駁であると思いました。戦争を含む作品で、こういうところに目が向けられることは今までなかったのではないかと思います。

 

●終戦

すずさんの怒りが、悲痛極まりなかった。終わった終わったと部屋を出ていった徑子さんが、家の外で泣き崩れたところも、苦しすぎました。

 

●新しい家族

原爆で母親を失った女の子。失った右手があの子をつなげた、と指摘する人がいましたが、なるほど、とおもいました。

 

 

勝手にこの作品のメッセージを感じ取って勝手にしゃべる

私は、以下の三点をこの映画のおもなメッセージだと勝手に解釈しました。

 

◉身近な人が死ぬということ
◉理不尽だろうが、生活していくこと
◉少しだけ優しくいること

 

一つ目。作者自身が原作のあとがきで、「『誰もかれも』の『死』の数で悲劇の重さを量らねばならぬ『戦災もの』を、どうも理解出来ていない気がします」と述べています。戦争の規模が大きいほど悲惨だ、という戦争の語られ方に懐疑的な見方を提示しているようですね。いやいや、人が死ぬということはそんなに簡単に語れうるものなのか?まさに、この作品はこうした想いの結晶な気がしました。身近な誰かが死ぬ、という当たり前の事実に対する想像力が私には欠けていました。だからこれまで、好んで戦争モノを見れたのだなあと。人の生は、いい加減に抽象できるものではないとの作者の確信が、私には強く響きました。戦争を体験した人がいよいよ減ってきた昨今、後世に戦争を伝えるときに、どんな場所が狙われて、どんな爆撃機がやってきて、どんな種類の爆弾が落ちてきて、〇〇人亡くなって、という「客観的」なデータを並べるだけでその戦争を知った気になってしまいがちですが、最も伝えなければならないことは、「身近な人が死ぬ」、それも理由なきに、あっさりと死んでいくその事実であるということなのではないか。確かに、その通りかもしれません。

 

二つ目。戦争=悲劇という画一的な見方に対する挑戦であったと思います。戦争だ、悲惨だと、戦争をかいつまんで知るだけのわれわれが、これまた見落としていた視点を鮮やかに提示しています。圧倒的に理不尽な状況だけれども、それでも、淡々と生活を続けた、生があった。常に悲しいのではなく、笑いもあった。その生が連綿と続いて、「どこにでも愛が宿って」、現在がある。それがまた、続いていく。戦争が過去のものではなく、今と同じように生活していて、たまたま当時は戦争があった。そのことに気づけただけで、わたしにとってのこの映画の価値はゆるぎぎないものになっている気がします。

 

 社会学者の見田宗介真木悠介)さんは、このようなことを言っています。自然科学が説明する「真理」は、人ひとりの生どころか、人類の生そのものが、永劫の宇宙のなかのある一瞬のできごとであることを教える。したがって、私たちは、「どうせ死んでしまい、なにもかもなくなる」ニヒリズムにおびやかされている。このニヒリズムを転回する道は、この世界を(科学的/理性的に)分析しつくした先にしかないという。

すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとしさへの感覚を、豊穣にとりもどすことにしかない。

真木悠介、2012、「色即是空と空即是色:透徹の極の転回」『定本 真木悠介著作集Ⅰ』岩波書店、p.187)

 この映画の描写はまさに「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとしさへの感覚を、豊穣にとりもどす」試みの一つともいえるかもしれません。

 

三つ目。過酷な戦時下を生活できたのも、やはり人がいたからだと思いました。現代は「個人化」社会だと言われますが、たとえば、東日本大震災のとき(「絆」という言葉がとってつけたように使われたのはやや滑稽でしたが)だれかが、だれかの生活を助けようとして、バラバラだった何かがつながった気がしました。それはほんの少し、人に優しくすることだったのかもしれません。幼少期のすずさんが同じく幼かった見ず知らずのリンさんにすいかを分けてあげたように。この作品の中でも、人は喧嘩しますが、怨嗟/憎しみの再生産とは違います。お互いにどこか、程度の差はあれ相手に対して優しさを持っている気がします。そのことが、日常に少しでもあれば、その生は愛おしくなるのかもしれない。そのようなことに気づかせてくれました。

 

 

 

どう内容をまとめたら良いかわかりませんでしたが、素朴に思ったことはかきました。

書きたいことはもっとあった気がしますが、この内容で、ちょっとでも映画を思い出して会話もどきを楽しんでくれたら幸いです。以上。

 

※12/28 追記:すずさんの「右手」に関しては、たらればさんの感想が好きでした。

ツイッターの:引用者注)タイムラインで本作を作家が軒並み絶賛していたのですが、なるほど。本作は掛け値なく面白く、美しい物語だというだけでなく、作家なら誰でも、「もし突然描けなくなったら自分はどうなるのだろう」と考えたことがあるはずで、(描けなくなったとしても)「それでも生きていく姿」が本作には当たり前に、そしてこれ以上ないほど美しく描かれているからなんですね。

【ネタバレ】『この世界の片隅に』を観て泣きながらとった感想メモ - tarareba722’s blog

 絵を描くことが好きなすずさんだからこそ、その「右手」を失うことの意味が強調されますね。加えて、架空とはいえある人物に起きたことをここまで「自分のこととして」考えられる原作者のこうのさんの想像力にも感服です。